5月24日の日記

2004年5月24日 日常
 人によっては、非常に不愉快に感じるかもしれないことを、今日は書いてしまうかも・・・。すみません。

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 同じシチュエーションで、同じ言葉を言われても、その言葉に傷つく人と、そうでない人がいる。

 その根本にあるものは、(聞き手が)被害妄想の激しい人間か否か、そういった次元の問題ではないのだと私は思う。
 
 例えば、セクハラ一つをとってみても、異性の問題が原因で、深いトラウマを背負った人間の場合、そうでない人間に比べて、何倍も敏感だろうし、また傷つきやすいと思う。
 具体的に言うなれば、「キミの入れてくれたお茶は格別に美味しい」と言われた場合、それを嬉しいと思う人もいれば、非常に不愉快だと思う女性もいる・・・と言ったところだろうか。(勿論、言った相手にもよるけれど。)

 トラウマのない人間にしてみれば、一見「ちょっとしたこと」で悩んでいる人間がバカのように見えるだろう。
 
 しかし、たとえ第三者から見た場合に馬鹿げたことであっても、本人が傷ついているのなら、それは周りが特別に配慮してしかるべきではないだろうか。
 当人の努力も大切だけど。

 何でこんなことを書いているのかと言えば、私自身が、今、セクハラに関して悩んでいるから。何が一番辛いって、「今、私は精神的苦痛を被っている」と周りの人に言っても、誰一人、真面目に聞いてくれないこと。

 「え?ただ、それだけのことで?」とか、「気にしなきゃいいじゃん」と言った言葉に、ものすごく傷つく。
 
 「もっと具体的に言わなきゃ、分からないよ」と、まるで私がウソをついているかのように言われたこともある。(特定の個人に嫌がらせする人って、得てしてソトヅラいいし。)
 
 じゃあ、何故私が実は男性を苦手に思っているのか、そのバックグラウンドまで詳細に語らないと駄目なのか?
 それって、二重の暴力じゃないでしょうか・・・。

 私が一見、誰とでもうまく付き合えるような人間に見えるのもまた、事態をややこしくしている。
 今通っている大学では、男も女も本当に対等な関係で(と言うか、女の方が強い)、そのへんのことに悩むことはなかった。でも、「社会」はそうじゃないのね・・・。
 
 セクハラの基準は本来、個人の主観によるものだと思う。

 女も男も、お互い、相手を不愉快にさせないように付き合う。これが、人としてのマナーではないだろうか。
 
 

 

 

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杏

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